第3回|目の前のことを一所懸命やることだ——後は運と縁が決める
34歳のとき、私は起業した。
当時在籍していたソフトバンクでの仕事は充実していた。しかし私の頭の中には、インターネットが流通を根底から変えるという確信があった。1999年、イー・ショッピング・ブックスを立ち上げた。現在のセブンネットショッピングの前身だ。
正直に言えば、怖かった。大きな組織の看板を外し、ゼロから会社を作る。失敗したときの責任は、すべて自分が負う。
父に聞いた。「成功するために必要なことは何?」
父は言った。「目の前のことを一所懸命やることだ。後は運と縁が決める」
拍子抜けした、と言えば失礼かもしれない。正直、もっと戦略的な言葉を期待していた。市場の選び方、差別化の方法、資金繰りのコツ——そういう「経営のノウハウ」を聞きたかった。
しかし父が言ったのは、「目の前のことを一所懸命やれ」だった。
時間が経つほど、この言葉の深さがわかってくる。
起業してみると、先のことを考えすぎて足が止まる瞬間が何度もある。市場はどう動くか、競合は何をしてくるか、3年後の売上はどうなるか。しかしそれを考えている間も、目の前には今日やるべきことがある。顧客と向き合い、提案を磨き、仲間を育て、事業を前に進める。その積み重ねだけが、実績になる。
「後は運と縁が決める」という言葉も、最初は諦めのように聞こえた。しかし今は違う意味に聞こえる。自分がコントロールできないことに、エネルギーを使うな、ということだ。運と縁は、自分の力ではどうにもならない。しかし目の前のことに全力を尽くした人間のところに、運と縁はやってくる。父はそれを、長い経営者人生の中で見続けてきたのだと思う。
イー・ショッピング・ブックスは、立ち上げから5年で売上100億円、7年で200億円に達した。振り返ってみると、節目はいつも「目の前の仕事に全力だったとき」に訪れている。大きな案件も、大切な出会いも、準備していたわけではない。ただ、目の前のことを手を抜かずにやっていた結果として、扉が開いた。
DX時代の経営者は、遠くを見ることを求められる。中期戦略、テクノロジーロードマップ、業界の未来予測。それは必要だ。しかし遠くを見ながら、足元がおろそかになっていないか。目の前の顧客に、今日全力を尽くしているか。
父の言葉はシンプルだ。しかしシンプルな言葉ほど、実行することが難しい。
目の前のことを、一所懸命やる。後は、運と縁が決める。
【週刊SUZUKI 特別連載「父・鈴木敏文が遺したもの——次の時代の変革者へ贈る経営者の背中」その3】


筆者プロフィール
鈴木 康弘
株式会社デジタルシフトウェーブ
代表取締役社長
富士通、ソフトバンクを経て99年に現セブンネットショッピングを設立。セブン&アイHLDGS.取締役執行役員CIOとしてグループのデジタルトランスフォーメーションを推進。17年にデジタルシフトウェーブを設立し現職。日本オムニチャネル協会会長等も務める。






















